人気ブログランキング | 話題のタグを見る

聖夜の願い

 高崎はじめ君は、良い人です。周りの友人や彼を知る知人に尋ねてみると、誰からも等しくそのような返事が返って来るところから、それが分かります。はじめ君は年齢二十一歳、大学三年生の健康な男子です。彼の人の良さというがどれくらなのか、といいますと、東に泣いているん子供がいれば、駆け寄って慰めてお菓子を与えてやり、西にくたびれて座り込んでいるお年寄りがいれば、行ってその荷物を抱えてあげて——と、まあそんな喩えはいささか大げさなようですが、だけどイメージとしては、大体そんな感じだと言えば分かってもらえるでしょうか。そんな彼の事を良い人だと周りの人が評価するのは、いわば当然かもしれませんね。もちろん中には「好青年」というよりも「馬鹿」が付くお人好し、といった辛辣な言葉を投げつける友人もいたりするものの、概ねどこから見てもはじめ君は悪い人ではないという意見で、友人たちの見方は一致しているのです。
 そういうはじめ君ですから、学校でもお友達はそれなりにいるのですが、ところが残念ながら特定の女性には、縁遠いみたいです。どうもよく言われるように「良い人」というのは女性に対してどこまでいっても良い人で終わってしまう、そんな宿命のような物を背負っているのかもしれません。どうしてそれがわかるのかといいますと、実は今日はクリスマスイブの夜なのです。言うまでもなくクリスマス前日の夜、この日は恋人たちや家族にとって、大切なロマンチックなイベントとして大事にされている一夜でしょう。
 それだというのに、この特別な夜にはじめ君は何をしているのでしょうか。
 彼は今日はお昼から夜の八時まで、アルバイトに出掛けておりました。仕事が終わって帰る時間になると、街は一気にクリスマスの特殊なムードでいっぱいになっています。すれ違う人達は恋人同士でしょうか、肩を並べて楽しげに歩く若者たち、大きなプレゼントを入れた袋を提げて足早に帰り道を歩くサラリーマンの姿、ファンシーショップやおもちゃ売り場、ブランド物のブティック等は大賑わいで、後から後から押し寄せる買い物客を大忙しでさばく店員さん達の姿が見えます。はじめ君はそれら街の喧噪から一人ぽつんと浮いた格好で、いつも通りの歩幅でいつも通りの道を歩いて、いつものようにアパートに帰って来たのです。部屋に戻ったはじめ君は、ささやかな夕食を取ってちょっとの間SNSのチェックをして、そして時間が来るといつものように黙って静かに一人で寝てしまったのです。こんな夜には、おそらく学校のお友達だって恋人同士の語らいの一時くらい持っているでしょう。そうでない人達だって、もしかしたら独り身の憂さを晴らす為にホームパーティーや街に繰り出して大騒ぎを演じているかもしれません。ですが、我らがはじめ君を見て下さい。彼は一向クリスマスのことなど知らないかのように、いつも通りの態度でいつも通りの生活をして、そしていつものように決まった時間になると就寝してしまったのです。
 このような態度は、まま好ましい姿にも思えますが、それでも、ちょっと寂しいような気もします。せっかくはじめ君は良い人なのに。

 さて、はじめ君は一人アパートの寝床で眠りに落ちて、夢を見ました。
 どんな夢なのかといいますと、まあ大した夢じゃないようです。夢というより、何やら自問しているような妙な夢です。そんなところにもはじめ君の真面目な性格が現れているのかもしれません。
 彼が自問しているのは、自分がいつまでクリスマスプレゼントを貰っていただろうか、という事でした。これは今日のアルバイト先で(彼のアルバイトは、ある出版社の雑用事務なのです)、職場の人達が話題にしていたのを思い出していたのです。ある若い社員の人が、年配の人に尋ねました。
「Aさんの子供さんは、もう大学生ですよね。何歳くらいのときまでクリスマスプレゼントをあげてました?」
「そうだなぁ、」Aさんは腕組みをして少し考え、「まあ、いわゆるサンタクロースを語ったプレゼントは、小学生くらいまでじゃないかな」
「やっぱり小学生くらいですかね」
「そうだろうね。だけどそれ以降は、わかった上でプレゼントをねだられるんで、同じようなもんだけど」
「そっか。結局プレゼントをねだられる、と」
「そうそう」
「うちは今三歳だから、これからあと十年くらいはサンタクロースを演じなくちゃ」
「そうだな、そういうのはしてあげた方がいいよ」
「そうですよね」
 はじめ君はその会話を横で聞いていて、ふと自分の事を振り返って考えてみたのです。そしてそれは、夢の中でも続いていました。
 もちろんはじめ君は良い人ですから、こういう人は大抵、幸せな子供時代を経験しているようです。ご多分にもれずはじめ君は、優しい両親の元でなに不自由無く健やかに育ったのでしょう。こういうキャラクターの人は、物語としてはあまり面白くない(ディケンズやユゴーの小説を読めば、その意見に頷いて頂けるでしょう)かもしれませんが、はじめ君という人はそういう人なのだから、仕方がありません。私もあるがままに描写をするしかないのですから、詰まろうが詰まるまいが、このまま押しの一手で先へ進みますが、そういう家庭で育ちましたら、クリスマスについても、それなりに楽しい子供時代を過ごしていたのであろう事は、想像に難くありません。
 さて。自分は一体何歳くらいまで、サンタクロースに手紙を書いていただろう。
 はじめ君の記憶は、次第に時間を遡って行きます。一体、自分がサンタクロースを信じていたのは、何歳までだっただろう……
 おそらく、最後まで信じていたのは、小学校の三年生くらいじゃないだろうか。それ以前の記憶は不思議と曖昧な霧の中でぼんやりとした輪郭しか浮かんで来ないようです。彼が子供の頃、サンタクロースを信じている子供を馬鹿にするような雰囲気が、子供達の間に広まった時期がありました。それは自分が小学校に上がるか上がらないか、そんな時期だったんじゃないかと、彼は夢の中で考えます。はじめ君のお父さんは、彼が物心つくころから随分長い間サンタクロースの真似ごとをしてくれていたような覚えがあります。毎年毎年サンタクロースの扮装をし、プレゼントをそっと彼の枕元に置き、驚きと喜びを演出してくれていた、お父さん。ですが既にサンタクロースを信じていなかった当時小学生だったはじめ君は、それに対して何をしたのでしょうか。お父さんの事を鼻で笑った、自分の姿を思い出して、夢の中ではじめ君は急に背筋が凍る思いをしました。お父さんのがっかりしたような、寂しそうな、印象的な顔が、ふいに思い出されてきます。今から思えば、酷い事をしたのかもしれません。せっかくお父さんが、はじめ君の事を思って演じてくれていたのに、自分はお父さんを傷つけてしまったかもしれない。小学校三年生のクリスマス以来、彼には『サンタクロース』はやってこなくなりました。それは家族にとっても彼にとっても、夢の終わりだったのかもしれません。
 ——そうだ、あの時以来だったっけ。
 はじめ君は思い出したようです。所謂良い人であるはじめ君は、夢の中で罪悪感に囚われて肩を落としました。今度、年末年始の帰省時にお父さんに会ったら、少しお父さんに優しくしてあげようか。
 はじめ君は夢の中で、そんな事を考えているようです。せっかくのクリスマスイブの夜だというのに、こんな疲れる夢を見ているなんて、何だか寂しいはじめ君です。

 そんな夢を見ていたはじめ君が、ふと目を覚ましたのは、ほんの偶然の事でした。
 普段は寝付きがよく睡眠にもむらが無いはじめ君は、夜中に目が覚める事はほとんどありません。それが、その夜に限って目を覚ましたのは、どうしたわけでしょうか。
 ふいに、何かの物音がしたような気がしたのです。
 はじめ君はゆっくりと目を開いて、暗い部屋の中をそっと見渡します。
 すると。
 アパートの部屋の中で、何かの気配がするではありませんか。
 誰かが、ベッドの側に立っているような気がします。
 はじめ君は驚いて、弾かれたようにベッドから起き上がりました。急いで枕元のライトを点灯します。灯りに浮かび上がるように、そこにいる筈の無い、誰かの姿が彼の目に入りました。
「うわぁーっ!」
 思わず、はじめ君の口から驚きの声が上がりました。それと同時に、相手もそれに呼応するように大声を上げたのです。
「きゃーっ!!」
 きゃー?
 はじめ君はその金切り声にもっと目を丸くして、相手の姿をまじまじと見つめました。
 それは、——こんな事、大真面目に書くのも恥ずかしいのですが、事実なので仕方がありません——見覚えのない一人の小柄な女の子でした。ちょうど季節柄、と表現したらいいのでしょうか、白い縁取りのある赤いコートを身にまとっていて、よく見るとびっくりするくらい黒い髪の頭の上に、これまた赤い三角の帽子をちょこんと乗せています。
「どどどど……どうしてここここ」どうして、ここに?と、はじめ君は言いたいのでしょう。寝起きのよく回らない頭と舌が、もつれてしまっています。
「っていうか、何で急に起きるかなー」
 赤い着衣の女の子は、直ぐに開き直ったのか、呆れたようにそうぽつりと言いました。
「びっくりさせないでよ、マッタク」
「き、き、君は、一体……?」
 はじめ君はようやく、言葉に出来た質問を発しました。
「私? 私は聖夜の精——と言っても、まだ見習いなんすけどね」
「それって、」はじめ君は、一生懸命考えます。「サンタクロースとか、そういうやつ?」
「ま、そんなもんだと思ってちょーだい」
「そんなもん、って。いい加減な」
「いいじゃない。あくまでも見習いなんだから。まだまだ修行中、ってこと」
「だけど」彼は部屋の中を見渡して、変わった事がないか目で確認します。部屋の鍵は閉めてある筈です。帰宅した時に、それは確認しています。ベランダのサッシは閉め切っています。冬の間は滅多に開ける事はないのです。では、この女の子、いやもとい、聖夜の精は、どこから入ったというのでしょう。
「どこから入った? ここで何をしているんだ?」
 彼女はさも当たり前、と言ったふうに肩をすくめてみせて、
「どこから、って。どこでもないよ。なんせアタシは聖夜の精だからね。ひゅー、さっ。って入って来れるのよ」
「ひゅー、さっ。なんだそりゃ」
「ふふふ。信じてないね?」
「そりゃ」はじめ君はそう言いかけて、だけどふと思ったのです。「まだ夢を見ているんだな、俺。今夜の夢は手が込んでる」
 どう考えても、これは夢の続きなのでしょう。どこからも入れる筈もない自分の部屋に、サンタのコスプレをした女の子がいるなんて、そりゃどこからどう見ても夢に違いないのです。見れば女の子は可愛い顔をしています。目尻がきりっとしていて小鼻がつんと生意気そうに上を向いた彼女は、彼の好みのタイプと言ってもいいかもしれません。そんな女の子の夢を見るなんて、こりゃ自分はちょっと欲求不満なのかな……
「ね、それよりもさ。時間がもうないのよ」
 そう言って聖夜の精は、ベッドの枕元に置かれた目覚まし時計を指差しました。
 言われて時計に目を向けると、時刻は二十三時五十八分となっています。
「もう二分ほどで、クリスマスになってしまうでしょ。私たち聖夜の精の力は、日付が変わるまでが勝負なのよ。そこで——」聖夜の精は、そう言ってぽんっと手を打ち、得意げに胸を反らして、「アンタの願いを叶えてあげるわ。何でも好きな事を言ってみてちょうだい」
 はじめ君は、きょとんとして相手を見返しました。
 願い? 叶える? 何を言っているのか……
「どう? 何かお願い事があるでしょ? 何でもかんでも、って訳にはいかないけど、だけど大抵の事なら聞いてあげられるわよ。見習い修行中でも、それは請け合うから。ほらほら、言ってみて」
 そんな事言われても。はじめ君は、寝ぼけた頭で考えてみます。
 願い事か。
 いったい自分には、こういう時に頼みたい何かがあるかしら。
 人はこういう時に、どんな事を願うんだろう。富とか、名声とか、そういうもの? その昔イエス・キリストに悪魔は世界中の国々と栄華を与えると言って誘惑したらしいけど、そういうのが願い事なのかな。だけど俺は別にそんものは欲しくないしな。
 それとも、もっと身近なものがいいのか。例えば——
「なあ、どんな事でも聞いてもらえるのか?」
「そりゃね。出来ない事もあるけどさ。とりあえず、言ってみなさいよ」
 随分高飛車な子だな——はじめ君はそう思いますが、その事はあまり気にしない事にして——何しろ夢の中なのですから——言ってみることにしました。
「うちの近所に、小学生の女の子がいてね。その子は毎朝犬の散歩をしているんだよ。朝学校に行く時に出会うんだけど、先週その犬が急に病気になってしまってね、数日前についに死んじゃったんだ」
「ふむふむ。それで?」
「昨日も女の子を見かけたんだけど、可哀想なくらいに悄気ちゃってさ。その子があの犬をとっても可愛がっていたのを、俺はいつも見て知ってたからさ、何とかしてあげたいな、って思ってたんだけど、どうしたらいいのか分からなくて。なあ、聖夜の精ってのはさ、死んだ犬を生き返らせる事も出来るのかな」
「はぁー?」
「やっぱりそれは無理か」
「いや。あのね、無理とかそういうことじゃなくて!」聖夜の精は大声をあげて、そしてぽつりと聞こえないくらいの小声で「そりゃ、ちょっと難しいのは認めるけどね」そうこぼしてから、はじめ君の事を指差して、言うのです。
「それって、アンタの為の願いじゃないじゃない! ダメよそんなの。アンタの為に願いを叶えてやろうっていうんだから、アンタが得するような事じゃなくっちゃ。その女の子が幸せになっても、アンタがそれを見ているだけじゃ、意味ないじゃない! アタシはね、アンタが持っている欲を叶える為に、ここに来たんだから」
「うーん。ダメかぁ」
「もっとさ、なんかないの? ほら、あるじゃない。お金が欲しいとかさ、いい暮らしがしたいとか、さ」
 お金、かあ。
 お金と言えば、先日はじめ君は道を歩いていてお財布を拾いました。ブランド物の長財布で、よく女性が持つようなお財布だったのです。彼は中身をちょっと確かめてみて、かなりの現金が入っているのを確認して、それをそのまま近所の交番に届けたのでした。あのお財布は、無事に持ち主の元に届いたでしょうか。彼はふとその財布の事を思い出し、それをお願いしておこうかな、とちらっと思ってそっと聖夜の精を見ると、彼女はいかにもイライラしたような様子で彼の事を見つめています。
「もしかして、また何か変な事を考えてるでしょう?」
「いや——別に」彼はつい目を逸らしてしまいます。別に自分が後ろめたい事をしようとしているわけでもないのに、おかしな話です。
「あの財布の事でしょ。四日前にアンタが拾った」
「え? 何でそんな事、知ってるんだ?」
「アンタ私を誰だと思ってるの? 聖夜の精なんだから、アンタの考えている事は少しくらいなら分かるのよ!」
「へえ。そうなんだ」
「そうなんだ、じゃないわよ。ところでアンタ、あの財布の中にいくら入ってたか、ちゃんと調べた?」
「いや、特には……何だか大金が入ってたみたいだったけど……」
「あの中にはね、ざっと十二万円くらいは入ってたわね。——そうだ。その持ち主が現れなければ、中の現金はアンタのものになるじゃない。そのお金がアンタのところにいくようにしてあげましょうか?」
「いいよ、そんなの」
「あら、だってアンタにも権利はあるじゃない。財布を拾って、馬鹿正直に届け出てあげたんだから」
「俺はいらないよ。それよりもその金がないと持ち主が困るだろ?」
「そんなの。落としたうっかり者が悪いんじゃない」
「とにかく、いらないよ。それから——」
「何?」
「願い事を叶えてもらう必要もない。夢だと思って付き合って来たけど、そんな事を言う見習いサンタなんか、必要ないから」
「な——、なんですってぇ?」聖夜の精は、目をひんむいて驚いています。まさかはじめ君からそんなことを言われるなんて、思わなかったのでしょうか。はじめ君が「良い人」だって事を、まさか彼女は知らなかったなんて、そんなことがあるでしょうか。第一、こういう真面目な人には、あまり悪い事は、言うもんじゃないのです。
「わ、分かったわよ。とにかく、時間がないのよ。何か一つでいいから、願い事を言ってちょうだい。何かあなたの願い事を叶えないと、私はいつまでたっても見習いから昇格出来ないのよ。お願い、アタシを助けると思って、何かお願いしてちょうだい」
 彼女は急にしおらしくなって、頭を下げました。どうやら、そういうカラクリだったのです。はじめ君は、ちょっと黙って考えます。そうならそうと、素直に言えばいいのに。別にこっちだって邪険にするつもりはないんだから。
 ——どうせ夢なんだし。
 彼は気を取り直してもう一度考えてみます。富も名声もいりません。だけど、考えてみればこのクリスマスイブの夜に、独りでいるのは、お世辞にも幸せとは言えないかもしれません。折角の若き青春時代を、アパートの一室で燻らせていていいのでしょうか。さっき寝る前に見て回ったSNSでも、クリスマスイブの夜は皆楽しそうに過ごしている様子が伺えました。もちろんはじめ君も、それを見て何かを感じないわけではなかったのです。でも、ないものねだりをしないのは、はじめ君の美点でもあり、また一方では欠点でもあるかもしれません。人は自分にない物を求めるから、向上心も生まれます。現状から抜け出そうと這い上がろうとするエネルギーが、いつしか自分をいま以上の存在に引き上げてくれる原動力になる、という事もあるのです。今の状態に諦めてしまっては、見える世界も見えなくなってしまうかもしれません。
 その事にはじめ君は気付いてはいませんが、だけど寂しいという気持ちは、どこかにあったのでしょう。もちろん、それでいいのです。
 クリスマスに、一緒に過ごしてくれる人が、欲しい。
 ああ、聖夜の精が喜びそうな願い事が、はじめ君の胸の中に生まれたようです。
 でも、ちょっと待って。一体、どんな人がその相手にふさわしいのだろう。——はじめ君はふとそう思いました。優しい人でしょうか。可愛らしい人でしょうか。楽しい人? ちょっとエッチな人? それより、ただ二人でいるだけでも、何だか癒されるような、そんな人——そんな女性がいるのでしょうか。
 女性経験の少ないはじめ君には、その具体的なイメージが、上手く湧かないのです。
 聖夜の精は、そんな彼の事を黙って見つめています。ちょっとそのまなざしが、先ほどとは違って優しそうに緩んでいるように見えるのは、私だけでしょうか。
 やがてはじめ君の脳裏に、ある女の子のイメージが浮かんで来たのです。
 ああ、そうだ。女の子と言えば——
「実は、一つお願いがあるんだけど」
「うんうん。何?」その言葉に聖夜の精は身を乗り出します。
「近所にさ、ある女子高校生がいるんだ。毎朝、幼なじみの彼と一緒に学校に行くんだけどね、どうもその二人は幼なじみ以上ではない感じでさ、でも恋人同士じゃないんだよ。実は先日、ある場面に出くわしちゃって——」
 それは、一週間くらい前の事です。
 彼が話始めた高校生というのは、彼のアパートの少し先に住んでいるらしく、いつも一緒に、時には足早に、時には笑い合いながら学校へ登校する姿を、よく見かける子達だったのです。
 はじめ君は彼らをいつも微笑ましく見ながら自分も駅まで歩いているのが常だったのです。それが、ある日の朝の事です。ふいに彼らの言い合う声が、歩いている彼の耳に届いて来たのです。
「そんなの俺知らないよ。第一、俺たちただ小学校から一緒だってだけで、付き合ってるわけでもないし」
「馬鹿! 何でこんな時にそんな事いうのよ! 信じらんない!」
「こんな時もそんな時もあるか。事実なんだから、しょうがないだろ!」
「もういい! 知らない!」
 彼が通りがかると、女の子が一人で泣きながら路地を曲がって走って行くのが目に入りました。その後を男の子はゆっくりと歩きながら、ほっとため息をつくのが見えました。彼はちょうど通りがかったはじめ君の方をちらっと見たようですが、はじめ君がイヤホンをして音楽を聞いているのをみて、安心したのでしょう、そのまま学校に向って歩き出したのです。ですがもちろん、はじめ君は会話の最後の方を、しっかり聞いてしまっていたのです。ちょうど音楽が途切れたときだったので、状況を理解するくらいの情報は、耳に入ってしまいました。彼は、高校生達の歩き去った後を見つめながら、ふと複雑な思いに囚われます。ずっと二人は恋人なのだと思ってきました。それほど彼らは仲がよいように見えたのです。二人が幼なじみだというのは、以前から分かっていました。こういうのは、物語の中では通常ハッピーエンドとなる、とっても微笑ましいものです。なのに、おとこのこの方はそんなつもりは全く無かったのです。もしかしたらあの彼氏にも一方的に思う相手がいるのかもしれません。若い青春の思いは、時には一方向のみに投げかけるだけの報われない時を過ごすものです。彼らも、そうだったのかもしれません。
 それにしても、です。
 はじめ君は思い返すのです。毎朝のように、彼は彼女の笑顔を見てきました。そうやって思い返してみると、これまでの彼女の表情が、仕草が、それらの全てが、とってもいじらしく思えてなりません。つい自分の胸まできゅんっと締め付けられるような、妙な気持ちをあれ以来味わう事があるのです。
 あの子の笑顔が、もう一度見られれば、いいんだけど——
「あの子の想いをさ、何とか遂げさせてあげられないかな」
「それって、つまり何をするの?」
「いやだからさ、彼氏と上手くいくように、してあげられないかな、と」
「はーっ」聖夜の精は、今度も深く重いため息をつきました。「また、それなの?」
「駄目かな」
「全く、どうしてあなたは自分の為にこのチャンスを使おうとしないのよ? どうせならあなたがその女の子と上手くよろしくやればいいじゃないの」
「それじゃ意味がないよ。彼女は彼のことが好きなんだから」
「あの子が幸せになれば、いいっていうの?」
「そう。それだよ。それがいいんだ」はじめ君はそう言って、なにやらほくほくとした笑顔で笑いました。聖夜の精は何かもの問いたげに口を尖らせますが、ふっと息を吐きました。
「ま。仕方ないわ。それがあなたの願いなら」
「で、叶えてくれるのかな」
「さて。もう時間だわ」
 突然、聖夜の精は、冷ややかに言いました。
 言われて初めて気がついたはじめ君は、弾かれたように枕元の時計を見直します。時計の時間は、二十三時五十九分五十五秒を示しています。
 あ、あれ? まだ一分ちょっとしか経ってないぞ? そんな馬鹿な。あれから随分時間が経ったような気がしていたけれど……
「時間切れよ。これで、私は帰るわね」
 声に振り返ると、はじめ君の視界が真っ暗になりました。
 ……あ、あれ? おかしい、な……




 目覚まし時計が聞き慣れた電子音を発しています。
 はじめ君は、のろのろと目覚まし時計に手を伸ばし、音を止めました。いつもの目覚めと違って、何だから身体がだるいような気がしています。寝ぼけた頭を振って、身体を起こしました。時計を見て、ある事に気がついて顔をしかめます。学校に行く時間に、目覚ましをセットしてしまっているのです。もう帰省期間中なのに、こんなに早く起きる必要はありませんでした。折角の休みなのですから、ゆっくりすればよかったのです。仕方ない、折角だから朝ご飯を買いに近所のコンビニへ行く事にしよう。はじめ君はそう考えて、ベッドから抜け出して寒さに身体を震わせながら洗面所に向いました。
 部屋の中を歩きながら、ふと昨夜見た夢の事を思い出しました。ベッドを降りてすぐのこの場所に、あの聖夜の精が立っていたんだ。——聖夜の精、か。我ながら、変な夢を見たものだ。彼は顔を洗って歯を磨きながら、夢の内容を思い返してみます。願いを叶えてくれると、彼女は言った。失敗したな、どうせ夢なんだから、それこそ大きな事を頼めばよかった。世界の王にしてくれとか、芥川賞にノーベル文学賞にありとあらゆる文学賞を総なめにする文豪にしてもらう、とか、アカデミー賞の常連になるような超有名な俳優にしてもらうとか、大富豪もいいな、世界中の美人を集めたドンファンもいい。——そうだよな、そういう事をこそ、夢の中では願うべきなのに。なのに俺はどうして夢の中でさえああなんだ。小さい男だな、俺は。あんなの、どうせ夢なのに。
 そんなふうに思いながらも、取り立ててがっかりした様子もなく、はじめ君は手早く身支度をして財布を手に、アパートの玄関を出て、冬の柔らかい日差しが差す町を歩き始めました。いつもなら肌に刺すような冷たい風も、どこか清々しく感じられる、十二月二十五日。クリスマスの朝です。
 しばらく行くと、後ろから駆け足の足音が近づいてきました。足音と一緒に、朗らかな声が静かな町に響きます。
「ほら、エス! 行くよ。早く、早く!」
 その声に、はじめ君は弾かれたように振り返りました。
 それは、近所の小学生の女の子でした。彼女はいつものように愛犬を連れて、駆け足ではじめ君の目の前を通り過ぎました。楽しげに笑う少女の声と、嬉しげに吠え声をあげる犬の吐く息が、冬の朝の空気に白く染まっています。
 はじめ君は自分が見ているものが信じられないように、目を見開きました。
 ——あれ。確か、そんな……
 ふと後ろから声が聞こえてきます。はじめ君はぼんやりとその声に振り返ります。
 すぐ側の路地を曲がって、高校生のカップルが腕を組みながら通り過ぎるのが、彼の目に入りました。女の子はおしゃれをして、これから二人でどこかへお出かけなのでしょう。彼氏もまんざらでもないような顔で、彼女と並んで歩いています。楽しそうな二人の笑い声が、立ち尽くす彼の耳に届きました。
 ——え? そんな、だってついこの間まで……
 はじめ君は、ちょっと頭が混乱してしまって、事態がよく飲み込めないように、頭を振りました。自分の記憶がおかしいのか、昨夜の夢の何かと関係があるのかな。
 まさか、本当に聖夜の精、などと? ——馬鹿な、そんな筈あるわけないさ。
 そうです。そんな夢が現実になるなんて事、あるわけがありません。これはきっと、今までの事をはじめ君が思い違いをしていたのでしょう。犬は死んでいはいなかったし、二人は破局を迎えてはいなかったのです。多分、そうなのです。
 やがて、気を取り直してはじめ君は歩き始めました。コンビニは家からすぐなのです。彼は適当にお弁当を一つ選んで買い、直ぐに店を出てアパートに向かって歩き始めます。さてこれからどうしようか。道を歩きながら、彼はその日一日の事を考えてみます。今日はアルバイトは入っていないので、一日時間があります。このままですと、溜まってるものを片付ける日に、なりそうです。お洗濯、読んでいない本、聞いていないCD……一人でも、やる事は意外に山ほどあるものです。彼はやるべき事を一つづつ考え考え、路地を一つ曲がってアパートの前の通りに出ました。
 その時です。
 ふいに、
「あの。済みません」
「はい?」
 声をかけられて、振り返ると、一人の女性が立っていました。ちょっと小柄で、若い女の子です。視線が吸い込まれる程黒い髪の毛が印象的で、少し目尻がきりっとしていて小鼻がつんと生意気そうに上を向いたその顔に、どこか見覚えがあるような気がします。どこかで、会ったかな……
「この住所へは、どうやって行けばいいのでしょう?」
 女の子はそう言って、住所が書かれたメモを差し出しました。はじめ君はそのメモを覗き込んで、目を丸くします。
「これは、俺の家ですが」
「あ、あなたが、高崎はじめさんですね?」彼女はそう言うと、ぱっと顔を輝かせて、「私、三浦優子といいます。先日、私のお財布を拾って下さって、ありがとうございました!」
「あ、あの時の」
「はい。実家から送られて来た仕送りを下ろしたばっかりで、すごく困ってたんです。本当に助かりました」
「それは、良かったね」
「ええ。それで、是非お礼を言いたくて、この住所を交番で教えてもらって、今日は朝早くて申し訳ないとは思ったんですけど」
「いや、別にそんな。ご丁寧にどうも」言いながら、はじめ君は首を傾げました。確かあの時交番には自分の連絡先なんか教えていないのに。交番はどうやって俺の住所を調べたんだろう。
「もし宜しければ、今日お時間がありますか?」女性はにこやかに微笑みながら、そう言いました。
「え?」
「もし差し支えなければ、お食事でも、と思いまして」
「あ、はあ。いや、そんな」
「いいお店があるんです。私、お友達と美味しいお店に行くのが好きで、時々行くんですけど」
「へえ。どんな店なんですか」
「高崎さんは、日本食お好きですか?」
「好きですよ。学生なんで、あまり高価い店には行けませんけど」
「良かった。きっと気に入って頂けると思うんです。そこはですね、……」


 やがて二人は並んで歩き始めます。どうやらはじめ君にもクリスマスに一緒に過ごす相手が、出来たみたいです。ふと、町のどこかで誰かが笑ったような、そんなクリスマスの朝の出来事なのでした。
(了)

(2013/12/25)


by meigian | 2013-12-25 01:58 | 小説 | Comments(0)

自作小説を掲載しています。読み切りの短編ばかりです。よろしければ、おつきあい下さい。


by イッカク
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31